11月29日



3年という歳月

「3年経ったけど虚しさは募るばかり。 かてて加えてこれから寒さに耐えていかなければならない。 心が凍る季節がまたやって来るんだなぁとつくづく思う。 楽しいことなんか何にもありゃぁしない。 でもインフルの予防接種には行くよ。 一人で病と闘うのは辛いから。」 こんなメールを友達に送りました。 エラを張って『から元気』だけで生きてきたけれど時には弱い自分をさらけ出したい衝動にかられます。 迷惑とは思うけれど相手は私の気持ちを受け止めてくれる数少ない友達、『菩薩様』の親友でした。 

「3年前の今日「先に逝くけどごめんね。 あなたは今まで通りいそいそと生きてね。 43年間楽しかったぁ。 有難うね。」と言い残して『菩薩様』は旅立ちました。 寒い日でした。 通夜、葬儀、初七日、月命日、49日、年金受給停止、相続手続き、仏壇の手配、墓所の手配、そして気付けば寒さの極みにいました。 心が凍り付いていました。 「やっと一段落ついたなぁ。」と思った途端、その心の凍えに改めて気付いたのでした。

この3年間、兎にも角にも遮二無二生きてきました。 遮二無二生きることだけが私の心を支えてきました。 クラシック、ギター、英語学習、ボランティアガイド、英語版ホームページ、ジム通い、登山・サイクリング、友達との交流、料理、例えて言えばジャングルの中を行き着くあてもなくただただ突き進むようなものでした。 

そしてこの時点に立って「時は何かを解決してくれたのだろうか?」と考えてみます。  そしてその思索だけが辛うじて私の心を支えてきました。
『菩薩様』の親友からは返事がありませんでした。 「そりゃぁ、そうだろうと思います。」 後になって電話で話したとき「これは私が答えられることではない。」と思って


                                  ・












































7月 1日



立派な終楽章だなあと思います

ずっと前から「これをどのように書き起こすか」と考え続けてきました。 2015年1月12日放送の日本紀行『妻が






 

























6月12日



こんな身近に

『陽の弱り』を感じています。

それは突然にやってきました。 いま言いようのない『悲嘆』の中にいます。 気力もなく暑い部屋に閉じこもって『淋しさ』
と『悲しみ』に耐えています。 大事な人を失いました。 私事を率直に打ち明け、相談できるこの世でただ1人の人でした。

『菩薩様』と姑の確執の中で、姑の妹でありながらいつも『菩薩様』のサイドに立って支えてくれた人でした。 『菩薩様』は
この人を慕い、いつも感謝していました。 『菩薩様』にとっても自分の母親よりも心が許せる人でした。 彼女が朦朧とした
意識の中で天井の一角を見つめながら「おばちゃ〜ん!」と呼びかけたことを思い出しています。            ・

日曜日の夜電話で話しました。 いつもと変わらない朗らかな声でした。 「長男にな、温泉に連れて行ってもろうたが。 大
きな温泉に入ってな、マッサージをしてもろうてな、それから魚の肝やら美味しい料理を仰山食べさせてもろうたが。 広い部
屋で1晩寝てな、贅沢をさせてもろうたがな。」と嬉しそうに話していました。 その話が最後になりました。      ・

火曜日の朝早く妹から電話がありました。 一瞬「こんなに早く電話があるんじゃぁ、いいことではないな。」と思いました。
「おばさんが倒れた。 意識不明で予断を許さんそうじゃ。」 すぐに子供達にも連絡をして見舞いに帰りました。 でも私が
到着する5分前に息を引き取ったそうです。 身体はまだ暖かく、今にも目を覚ましそうな様子で横たわっていました。  ・

水曜日が通夜、木曜日が葬儀、一連のお勤めを済ませて昨日、今日と打ち沈んでいます。 『終楽章を生きる』ということはこ
うして様々な悲しみに耐えていくことでもあるように思います。 I want to live my old age w
ith activity and intelligence. 私は泳ぎ続けるツナのように決して立ち止まらない、そう
思いながら生きてきましたが、いま『陽の弱り』を感じています。                          ・























先日、私が卒業した会社の『同期会』がありました。 引き続き仕事を持っている人、地域のお世話で手が抜けなかった















































8月20日




『陽の弱り』を感じています。

それは突然にやってきました。 いま言いようのない『悲嘆』の中にいます。 気力もなく暑い部屋に閉じこもって『淋しさ』
と『悲しみ』に耐えています。 大事な人を失いました。 『菩薩様』がいなくなった今となっては、私事を率直に打ち明け、
相談できるこの世でただ1人の人でした。                                     ・

『菩薩様』と姑の確執の中で、姑の妹でありながらいつも『菩薩様』のサイドに立って支えてくれた人でした。 『菩薩様』は
この人を慕い、いつも感謝していました。 『菩薩様』にとっても自分の母親よりも心が許せる人でした。 彼女が朦朧とした
意識の中で天井の一角を見つめながら「おばちゃ〜ん!」と呼びかけたことを思い出しています。            ・

日曜日の夜電話で話しました。 いつもと変わらない朗らかな声でした。 「長男にな、温泉に連れて行ってもろうたが。 大
きな温泉に入ってな、マッサージをしてもろうてな、それから魚の肝やら美味しい料理を仰山食べさせてもろうたが。 広い部
屋で1晩寝てな、贅沢をさせてもろうたがな。」と嬉しそうに話していました。 その話が最後になりました。      ・

火曜日の朝早く妹から電話がありました。 一瞬「こんなに早く電話があるんじゃぁ、いいことではないな。」と思いました。
「おばさんが倒れた。 意識不明で予断を許さんそうじゃ。」 すぐに子供達にも連絡をして見舞いに帰りました。 でも私が
到着する5分前に息を引き取ったそうです。 身体はまだ暖かく、今にも目を覚ましそうな様子で横たわっていました。  ・

水曜日が通夜、木曜日が葬儀、一連のお勤めを済ませて昨日、今日と打ち沈んでいます。 『終楽章を生きる』ということはこ
うして様々な悲しみに耐えていくことでもあるように思います。 I want to live my old age w
ith activity and intelligence. 私は泳ぎ続けるツナのように決して立ち止まらない、そう
思いながら生きてきましたが、いま『陽の弱り』を感じています。                          ・










































3月23日


crisis

左顔面、口角の周りが痺れる。 左目の瞼が痺れでかぶさったように重い。 こんな症状はいままでにもあったように思いま
す。 でもこのたびは少し顕著に思えるし、それに左足に軽い痺れがある。 トイレに行くと『日めくり』の字がぐるりと左
に揺らぐ。 しかも頭痛というほどでないにしても後頭部が重い。 運動機能や言語機能は正常でしたが「これはおかしいぞ
!」と感じてどうするかを考えました。                                     ・

21日、今日は祭日で病院はお休み、でも『緊急事態』に気付いてくれる誰かがいない『独居老人』にとっては「明日まで様
子をみるというような悠長なことは言っていられない。」と決断して緊急外来に電話をし状況を説明して入院しました。 す
ぐに生理食塩水の点滴、頭部CT検査、胸部レントゲン撮影。 緊急外来の診断では頭部に出血なし。 これで一つの山は越
えた。 翌日循環器内科、脳神経外科の診察を受けることになり更に1泊しました。 それにしても緊急外来病棟のホスピタ
リティーは凄い。                                               ・

緊急外来では、徐脈、不整脈を随分心配されていました。 循環器が主因と考えられたのかも知れません。 それはそうでし
ょう、日常的に脈拍数40以下、3〜4回に1回は脈が飛んでいます。 翌朝脳神経外科の一般病棟に移動、それから循環器
内科へ。 「そりゃぁ、これを見たら初めての者はビックリするで。 じゃが、いつもと変わっとらんしかえってよくなっと
る部分もある。 循環器の心配はいらん。」 この先生はいつもぶっきらぼうなのです。 これでまた1つ心配材料(今度こ
そペースメーカーか?)が減りました。                                     ・

夕刻になってMRI。 実はこれが一番心配でした。 どこぞにポッカリと壊死した部分がなければいいのですが。 その日
の内に診断があり、異常がなければ退院と思っていましたが説明は翌日になってもう1泊。 緊急事態にそなえてもう少し様
子を見ておきたいという配慮のようでした。 病室では何もすることがないのでぼんやりと考えごとをしていました。 院内
は辛気臭いけど、食事を作らなくていいし後片付もいらない。 これで緊急外来病棟くらいのホスピタリティーならまんざら
でもないなぁ。 でも一般病棟はベッド数も多く、そんなに目が届かないみたい。 それはどうってこともないけれどベッド
が合わず腰が痛くて眠れない。                                         ・

そして朝早、脳神経外科外来から呼び出しがあって診断結果の説明。 多分大丈夫だとは思いながらやはり心配でした。 結
論から言えば『所見なし』。 画像には黒く抜けている部分はどこにもありませんでした。 「初期の症状は今もありますか
?」 「いいえ、ありません。」 「MRIでは梗塞は見当たりません。 一時的に毛細血管が詰まって症状が出たことが考
えられます。 その場合、治癒能力が働いてすぐに回復したものと思われます。 念のため脳内と首筋の血管の写真を撮って
いますが、変形もなくツルッ!としていて問題はありません。 血液サラサラの薬を処方することも考えられますが、この状
況で血栓が起こるリスクと薬の副作用のリスクはいずれも1%ですので薬はお出ししません。 高血圧を治療中のようですが
血圧を出来るだけ低く保つように心がけてくさい。」                               ・

こんなことで取り敢えずは安心して退院しました。 医療費はかなり高額になりましたが、平生から少し心配だった最後の部
分(MRIは長い間撮っていなかった)が解消しましたので、それはそれでよかったと思っています。 とすると、最初のあ
の症状は一体何だったのか? 一過性の梗塞だったのか、他に何かあったのか、そこは見当がつきません。 でも入院直後に
信じられないくらい血圧が上がっていた(翌朝までには通常の値に戻った)のは気がかりなところです。 よくよく振り返っ
てみると暖房の不十分な部屋で震えながら今年の寒さを過ごしたことも血圧に影響したかも知れません。(次の冬までにはと
防寒対策を検討しているところです。)                                     ・

さて、何で私がこのようなことをお話しするかということです。 半身が不自由になられた方が杖を頼りに一生懸命リハビリ
に取り組んでおられる姿をよく見かけます。 私の実父も義父も脳梗塞のため半身が不自由になり、周りの手助けがなければ
生活が難しくなったのを見てきました。 脳梗塞を確実に防ぐことは難しいとしても、早期発見であれば軽傷ですむ、或は回
復が早いと聞きます。 でもご同輩の中には私と同じように『独居』の方も多いかと思います。            ・

今回こんな経験をしましたが、私はいつも『生きている限りは『自立』できる『独居老人』でいたい。』、こんなことを考え
ながら生活しています。 そのためには日ごろから自分を知り、自らをコントロールしていかなければなりません。 好むと
好まざるに関わらずです。 今回は見方によっては『空振り』に終わったのかも知れません。 しかしそれは結果からの逆算
に過ぎません。 私は『何か前兆があれば『空振りを恐れず』すぐにでも行動を起こす。』をモットーにこれからも毎日を生
きていこうと思います。                                            ・

私の経験がそうした『お一人で生きていくご同輩』の一助になればと思い、「そんなことはお前に言われるまでもなく、誰で
も考えとる。 みんな知っとる。」という誹りのあることを承知で恥ずかしながらこの一文を掲載しました。      ・