7月 1日



立派な終楽章だなあと思います

ずっと前から「これをどのように書き起こすか」と考え続けてきました。 2015年1月12日放送の日本紀行『妻が
残したレシピ』です。 ご覧になった方も多いかと思います。 Yさんは6年前に会社を定年退職されました。 そして
その1年後に奥様を癌で亡くされました。                                  ・

奥様は自宅を改装し、パン屋さんを20年続けてこられました。 そしてその傍ら街のホームレスの人たちに無料でパン
を配る活動を続けてこられました。 その奥様がお亡くなりになる直前に「ホームレスの方たちにパンの提供を続けて欲
しい」とYさんにレシピを託されたのでした。                                ・

奥様がお亡くなりになって暫くは奥様の死がなかなか受け入れられず、おそらく私と同じように辛く空虚な毎日を送られ
たのではないかと思います。 しかしある時『なぜ奥様が最後にレシピをお渡しになったのか』、その思いを知りたいと
パン作りにトライされるようになりました。                                 ・

最初の内はうまく焼くことができず固かったりしたようですが、奥様に背中を押されながら(この気持ちはとてもよくわ
かります)徐々に腕前も上達、パンの種類も増えていきました。 そしてそのパンをホームレスの人達に配ったときのそ
の人達の笑顔に接したとき、奥様がYさんにレシピを託した意図を感じることができたといいます。        ・

長い会社生活の後、頼りの『連れ合い』を失い1人で世間を生きていかなければならなくなった男にとって、一番の不安
は『すべのなさ』だろうと思います。 『菩薩様』は最後に、「あなたは今まで通りいそいそと生きてね。」と言い残し
ました。「大丈夫だよ。」と励ましながら、一方で人間関係が不得意な私を案じ、きっと「前向きに生きろ。」と叱咤し
たのだろうと思います。                                          ・

Yさんの場合、パンを焼きホームレスの皆さんに配る、そのことは手段であって目的はその先にある・・・何か動き出さ
なければその先は広がりません。 そして一番琴線に触れるところでそれを後押しされた、きっと思慮深い奥様だったの
だろうと思います。                                            ・

こうしてYさんはパン作りを通して新しい人生を歩み始められました。 私はまだまだ『菩薩様』の遺品に手が付けられ
ないでいます。 彼女が逝く前に2人で話したメモにもまだとても目を通すことができません。 しかしYさんは奥様の
遺品に少しづつ目が通せるようになり、開けたが読めずにいた最後の手紙にもやっと目が通せるようになったそうです。

最近ではNGOの人達だけでなく、奥様やYさんに支援を受けた元ホームレスの方達にもお手伝いを頂きながらパン作り
を続けておられます。 そしてサラリーマン時代には見かけても気にも留めなかった人達との交流を続けながら、新しく
発見した人生を歩んでおられます。                                     ・

私にはまだまだ乗り越えられないことが沢山あります。 その為にしゃにむに生きようとしているところがあります。・
Yさんには教えられました。 そういうことを考えながら、「どうしても私のページに書き起こしたい」と考えて、実は
聞きかじりでYさんのお気持ちを十分に伝えられないのではないかと恐れつつこうして紹介させていただくことにしまし
た。 もし十分にお伝えできていないとすれば、それはひとえに私の未熟の故です。 どうぞご容赦ください。   ・





 

























6月12日



こんな身近に

先日、私が卒業した会社の『同期会』がありました。 引き続き仕事を持っている人、地域のお世話で手が抜けなかった
人、それぞれに様々な理由があって今回はたった5人だけの淋しい会になりした。 でも世話役のご苦労で、出席できな
かった仲間たちからのメッセージに接し皆さんの近況を知ることができました。                 ・

その中に、『○っさん』と呼んでいた仲間のコメントがありました。 彼は私が卒業し、関連会社に転職する直前に一緒
に働いた仲間でした。 愚直といっていいほど誠実な男でした。 その彼が任せられていた仕事は、地味ながら戦略的で
しかも極めて困難な仕事でしたが、持ち前の粘りで全国をうならせる成果を挙げた男でした。           ・

穏やかないい男でした。 その彼のコメントには短く「ご無沙汰しています。 ここしばらく京都にいます。」とありま
した。 仲間内では「京都で絵を習っているそうだよ。」という噂でした。 「へぇ! あの彼がねぇ。」 当時の彼か
ら芸術とは・・・ちょっと想像がつきませんでした。                             ・

翌日、早速彼に電話をしてみました。 そして私たちが別れた後のことを様々伺いました。 私は彼が自宅近くの職場に
転勤したものと思っていましたが、その後も遠距離通勤が続き、還暦を前にして身体を壊して早期退職を余儀なくされた
ことを知りました。 そして心臓の手術、時を経ず奥様との死別といろいろと辛い思いをされたようでした。    ・

その後、京都の某芸術大学で4年間の通信教育を受け、今年めでたく卒業されたそうです。 そして現在も引き続き京都
と自宅を行き来しながら活動を続けておられます。 「いま東京と神戸で仲間たちと展覧会を開いています。 人物画が
得意で入選もしたんですよ。」と話してくれました。 私のような生噛りではなく、彼のJobはかなり本格的です。・
と思いつつキャンバスに向かう彼を想像すると、あの頃の仕事に打ち込む彼の姿を懐かしく思い起こします。    ・

今年が卒業だとすると入学が4年前、退職から入学までの数年間に彼に何があったのか、私はまだ彼からそのお話を伺っ
ていません。 きっと心を引き裂かれる辛い思いをされたのでしょう。 そしていまその悲しみを乗り越えて新しい人生
を切り開いておられる、「素晴らしい『終楽章』を生きておられる方」がこんなにも身近にいたことを知りました。 ・

京都の大谷本廟に『菩薩様』を分骨しています。 近いうちに本廟にお参りし、合わせて彼にお会いして同じ悲しみを抱
える者としてその時の心境、今の心境などを様々お聞きしてみたいと思います。 きっと『終楽章』を生きていく大きな
ヒントを与えてくれるのではないかと期待しています。                            ・















































3月28日



初めに

『菩薩様』とは何か、なぜ『菩薩様』なのか、初めにそのことを書いておきたいと思います。 『菩薩様』は私の家内で
した。 そして以下のような理由で私は彼女のことを『菩薩様』と呼ぶようになりました。 このことはこのサイトを通
じてかなり多くの方々に知っていただいたところです。 その彼女は「先に逝くけどごめんね」「43年間ありがとうね
。 楽しかったぁ。」と言い残して旅立ちました。 私は思うのです。 私は何の取り柄もない平凡な人間でしかなかっ
た。 でもこんな私がこうして何とか独り身の老いを養っていける。 『菩薩様』は今日あることを察してその素地を作
ってくれていたのではないかと思うのです。 いやきっとそうでしょう。 『菩薩様』は今なお私の心の中に生き、私の
背中をを押し続けています。 以下は2000年の頃にこのサイトに載せたものの再掲です。           ・


我が家の『菩薩様』について

指折り数えるようにこの日を楽しみにしていた菩薩様が鎌倉旅行に旅立った。 折悪くその日の朝トイレで持病の腰痛が
再発した。 便座に座った途端に腰がスルッと滑って激痛が走った。 心配させないで送り出してやろうと必死で痛みを
こらえていたが、菩薩様がドアを閉めた途端にそのドアに寄りかかって暫く動くことができなかった。       ・

腰痛を患う者にとって厳しいことの一つはソックスが履きにくいこと。 痛みのパターンはそれぞれなので断言はできな
いが少なくとも私にとってはこれが一番辛い。 鎌倉から菩薩様が帰ってからは毎日ソックスを履かせてもらった。 ・

こんなことをして貰いながら、ふと若い頃に腰痛で苦しんだことを思い出した。 30代の半ばを少し越えたころ腰痛で
2ヶ月仕事を休んだ。 寝ても痛み、起きても痛み、終いには歩行さえ困難になった。 短時間なら正座で耐えることが
できる。 丼物を冷ましてもらい、正座ができるわずかな時間に胃の腑にかき込んだ。 あっという間に痩せ細った。・
挫折感ばかりで心が荒んだ。                                        ・

病院に行ったらいきなり承諾書を突き付けられた。 直ちに入院、手術だといわれた。 術後5年間は保証するが、その
後は保証できないと聞いて逃げるように家に戻った。 それから人がいいということは何でもやった。 藁にもすがる思
いだった。 ハリ、灸、置きバリ今でもレントゲンを撮ると20本ばかりハリが残っているのが見える。 笑い話しのよ
うだが大根の汁も飲んだ。 クチナシの実も煎じて飲んだ。 そして整体にたどり着いた。            ・

病むと夜は長くて怖い。 そして痛みは一層つのるのだ。 コタツにすがって纔にまどろむ。 痛みで目が醒めると、ど
んな時刻でも風呂に入って痛みを和らげた。 或いは深夜に起き出して徘徊した。 そうすることによって、纔ながら痛
みを紛らわせることができるのだ。                                     ・

このために菩薩様はいつも風呂を保温にしておいた。 そしていつも服を着て眠り、痛みに耐えられなくなるといつ始ま
るか分からない私の徘徊に備えた。 いつも林檎を1つ持って歩いた。 二人で噛りながら歩いた。 多分わずかな蓄え
も底をついたろうし、肉体的にも精神的にも疲れたに違いないのに弱音一つ吐かず希望と笑顔を絶やさなかった。  ・

菩薩について。 サンスクリット語の『ボーディ サットヴァ』の漢訳音写語『菩ダイ薩タ』の省略語。 『真実の自己
』『自他不二』ということを徹見して悟りを開いた人。 覚有情ともいう。 私は多分この人達は自分の中に宇宙を見て
いるのだと思う。                                             ・

菩薩は悟りを開いて『仏陀』となり、一点無縁の大悲心から衆生を済渡するため、一段位を落として私達の身の回りに存
在する。 般若心経の冒頭に出てくる『観自在菩薩』は観音様、その他にも地蔵菩薩、弥勒菩薩、文珠菩薩などなど沢山
おいでになる。                                              ・

私は、わが家の菩薩様は観音さまの化身だと思っている。 他人を分け隔てず、他人の喜びは我が喜び、他人の悲しみは
我が悲しみ、施し多く見返りを求めず、こうして私の傍にいて苦難の都度手を差し伸べてくれる。         ・

何度助けられたかなぁ。 こんなことで私は誰はばかる事なく、家内のことを『わが家の菩薩様』と呼んでいる 。 ・































3月10日



終楽章を生きる

このサイトのタイトルを『終楽章を生きる』としました。 友人の間では「『終楽章を生きる』では格調が高すぎる。・
むしろ『黄昏を生きる』の方がいいのではないか」という意見もありました。 しかし私は敢えて『終楽章を生きる』と
しました。                                                ・

ご存知のように交響曲は一般的に4楽章で構成されています。 そして『終楽章』、つまり第4楽章には言うに及ばず交
響曲を完全な形で締めくくる役割りがあります。 しかし私はこの『終楽章』に、単に『交響曲』の『締めくくり』では
なく、そこに込められた作曲家の意図を看るのです。 例えばベートーヴェンの交響曲5番の『終楽章』には、諦観や単
純な受容ではなく『人生のすべてを肯定し、人生の最後を高らかに歌い上げる』ゆるぎない確信と希望の光を看ます。・

『菩薩様』が逝った後、私は生きる意味を見失ってしまいました。 「生きていればいいんです。 生きていることにこ
そ価値があるんです」という友達のsuggestにも素直に耳が傾けられませんでした。 かといって自ら死を選ぶ勇
気もなく、ただひたすら『菩薩様』との思い出の中に生きていました。 そうした姿は、友達にも随分ご心配をおかけし
たように思います。                                            ・

そんなとき、私は『菩薩様』からある啓示を受けました。 そのことは後ほどお話ししたいと思います。 それ以降私は
徐々にではありますが、結末に至るこの『終楽章』を私なりに意味あるものにしたいと思うようになりました。   ・

いま私は私と同じ境遇にありながら、なおかつ力強く生きておられるご同輩に関心を寄せ、そういう方々から多くを学び
たいと思っています。 そして意味のある『終楽章』をともに生きていければと願っています。 こういう思いから私は
私の『終楽章』のありようを発信することにしました。 これがこのサイトを『終楽章を生きる』とした所以です。 ど
うぞよろしくお付き合い下さい。                                      ・